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季節の境でまた会えたなら

第5章

それから今吉は彬人を許してくれて、二人はますますうまくいっていた。今吉がどう思っているかはわからないが、彬人は将来的に彼女と結婚したいと思っていた。今吉は学部卒業後すぐ就職するのだろうが、自分はできたら大学院まで行って、それから企業に就職したいと思っているので、結婚はそれからだな、と漠然とした人生設計も立て始めていた。今は二人とも2年生で教養部のキャンパスにいるが、3年からは別のキャンパスに移る事になっているので、家からも遠くなるし、彬人は一人暮らしを始めようと思っている。
もうエーコさんとも神崎とも連絡を取っていない。敢えて忘れることにしたし、今吉と付き合っていると実際彼らのことがどうでもよいことのように感じられてきた。

しかしそれは、夏休みも終わりしばらくした頃、混雑した電車で学校へ向かう途中のことだった。いつも今吉とは授業時間が合わなかったので一緒に行くことはあまり無かったのだが、最近は彼女が彬人に合せて早めに家を出てきてくれるようになっていた。

携帯の振動を感じた。電源を切り忘れていたらしい。だが、満員電車で通話するわけにはいかず、そのまま電話は切れてしまった。ちょうど国分寺駅で、後から来る特別快速電車がこの電車を追い抜いていく為の待ち合せが有ったので、しばらく停車している間にと思ってホームに降り、着信を見て、驚いた。登録していたことさえ忘れていたエーコさんの名前が表示されているではないか。
「どうしたの?」
と今吉が携帯を覗き込もうとするので、さりげなさを装って必死で隠した。
どうしようか迷って、留守電に入っていないか聞こうとしたが、入っていない。その途端、また電話が鳴った。エーコさんだ。どうしたんだろう。こんな時間にかけてくるのだし、急用かもしれない。
通話ボタンを押して、やや緊張して電話に出る。普通に、事務的な口調で話せばよいのだ。電話に出ないのも今吉には不審に写るだろう。

―もしもし?もしもし?

ちょっと意表をつかれたが、通話して来たのは男性の声だった。一瞬神崎かと思った。
「はい?」

―あ、もしもし、あの、私は通りすがりの者なんですけど、えっと。すみません。どうも。勝手に。

彬人は、相手が何を言っているのかしばらくわからなかった。

―あのですね、この電話を持ってる女の子が、電話手に持ったまま倒れたんですよ。

さっ・・・と、血の気が引いた。

―今駅員さんが119番して、救急車が来るのを待ってて。お家の電話番号とかわからないからとりあえずこの携帯の、履歴にかけたんですけど、知りあいの方ですよね。あの、連絡した方がいいかと思って。

「場所どこですか?」
彬人は自分でぎょっとするほど低い声で言っていた。口の中ががさがさに乾いていた。

―蓼川駅です。あの、私もう行かないといけないんで、あと駅員さんに、あの・・・

電話の途中で携帯を閉じると、彬人は走り出していた。下り電車のホームへ。
「アキト!!」
今吉が後ろから叫ぶ。その声にひるんだ。しかし、振り向くと、
「ごめん!今吉、ごめん!」
そう言って、また走り出した。

今吉を置いて来てしまった。彼女がどこまで追いかけて来たのか、それともそのまま追いかけてこなかったのか、動転していたのでわからなかったが、彬人が蓼川に着いた時にはまだ救急車は到着しておらず、エーコさんの意識も戻らないままだった。改めて調べても彼女の自宅の電話番号を書いたものが出てこない。ただ行き付けているらしい内科医院の診察券に名前と生年月日が書いてあったので、ちょうど到着した救急隊の方からそちらに連絡してもらった。そちらから自宅の方に連絡もとれるだろう。それにしても、そこに書いてあった生年月日から、彼女が自分より一年と一ヶ月しか年上でなかったのを知って驚き、そのせいか彬人はまた、ずきりと胸が痛くなった。
身内でも何でもないのだが、エーコさんに付き添って救急車に乗る。呼吸器を付けられて目をつぶっている彼女の痛々しい姿が、彼には苦しかった。こんな場面を見たくなかった。それなら来なければよかったのだが、何故か彬人は救急車に乗っている。
病院に着くとエーコさんは運ばれていき、彬人はひとり取り残されてしまった。
しばらく待合室で茫然と佇んでいたが、ようやく落ち着きを取り戻し、時計を見ると10時だった。
電話してくれた通りすがりの人は、履歴を見てかけたと言っていたので、多分、一回目に電話して来たのはエーコさん本人だ。それまでは電話したことも掛かって来たこともなかったのだから。何故彬人に電話してきたのだろう。具合が悪いということを誰かに知らせたかったのかも知れないが、何故自宅に掛けなかったのだろう。家族が出かけていて家に誰もいなかったのだとしても、何故恋人の神崎に掛けなかったのだろう。繋がらなかったのだろうか。知らせたくなかったのだろうか。

思い立って、財布を探ると、神崎の名刺が出て来た。会社の電話番号が書いてある。知らせた方がいいのだろうか。知らせていいのだろうか。いけないだろうか。自分はどうしたいんだろうか。
くるくるといろんな問いが頭に浮かんだが、公衆電話を見つけ、小銭を適当に押し込むと、名刺の番号にかけていた。
エーコさんのことを伝えると、神崎はすぐ来ると言う。仕事の方は大丈夫なのかなと思ったが、彼は本当にすぐ来た。救急車が来る時間より早かった気がする。
「会社がこの近くなんだ。」
と彼は言った。しかし思ったよりは落ち着いていたので、もしかしたら今までもこういうことは有ったのかもしれない。少なくとも神崎はこういう時がくるのを前から覚悟していたかのようだった。彼は走るようにして彼女のもとへ向かい、医師に様態を聞いてくると、側にいることはできなかったらしく、また待合室に戻って来た。一体彼女はどうしたのか、神崎は黙ったまま何も言おうとしない。話し掛けづらかった。
彼女が集中治療室に入って2時間。見舞いの人がやってきては、帰って行く。子供が駆け回ったり、入院患者が売店へ買い物に行ったり、看護婦が怖い顔で通り過ぎて行ったり、たくさんの人が静かな病院の中を、彬人と神崎の前を、往来する。
二人とも随分長いこと黙っていたが、何かしゃべっていないと苦しくてたまらず、無視されるのを覚悟で、ようやく彬人が口を開く。
「エーコさんって、OLですか?」
その声に我に返ったように、神崎は、いや、と返事をした。
「あいつ、以前は、西荻窪の大学で非常勤の事務の仕事してたけど、今は国立(くにたち)の紅茶の葉っぱ売ってる店に勤めてるんだ。パートタイムでね。あれで結構接客なんか似合うんだ。厚化粧しなきゃあね。」
彼は無理をしているようだがちょっと笑って見せた。
「おっと、彼女の店に電話・・・番号わからないな」
「あの、エーコさんって僕と同じ位の歳だったんですね。」
「あれ、知らなかったの?まあ、歳なんて言わないか。僕が知り合ったのは彼女が短大の時だったからね。卒業してそんな経たないから、今・・・22。3になったかな。いや、早生まれだからまだ22。」
「もっと上かと思ってました。」
「化粧濃いからね。病気してからも、よせって言ってるのに煙草なんて吸っちゃってさ。・・・でもいい子なんだ。」
神崎は笑いながらため息をつく。いい子なんだ・・・。その言葉が字面からだけでは想像もつかないほど愛情込められている気がして、思わず彬人はうつむいた。
「君は・・・アキヒトくんは・・・」
神崎は始めて彬人のことを聞いて来た。
「X大生なんだってね。僕が知ってるのはそれだけだけど・・・。」
「ええ・・・。」
「エイコのことが好きなの?」

違う。自分が好きなのは今吉和子だ。違うんだ。しかし、どうしてもその一言が出てこない。
今吉を国分寺に置いて来てしまった・・・。

エーコさんが意識を取り戻したというので、神崎は彼女に会いに行こうと立ち上がった。エーコさんの両親はここからは遠いところに仕事に行っているらしく、連絡はついたがまだ来ていないようだ。
「一緒に来ないのかい?」
神崎は言ってくれるが、彬人は立ち上がらず、首を横に振った。彼は強いて連れて行こうとせず、一人で看護婦について行ってしまった。
また一人になった。座っていると、どこからともなく深い悲しみが襲って来た。どうしようもない程寂しい。広い世界にたった一人になってしまったような気がした。待合室には暇をもてあました入院患者が数人集まって来ていた。テレビがNHKのニュースを伝えている。日本のどこかで、事故が有り、事件が起こり、イノシシが畑を荒らし・・・。

どれくらいの間そこに座ってたのだろう。それ程長い時間ではなかったのかもしれない。気がつくと神崎が目の前に立っていた。
「もう大丈夫そうだった。意識はしっかりしているし。」
彬人はほっとした。だが何か恐ろしくて、何も聞けなかった。
「エイが、君に会いたいって。会ってくれないか?」
迷った。会うのが怖かった。会いたくなかった。
「エーコさんと付き合ってるんでしょう、何故僕に会わせようとするんですか。」
彬人がそう言うと、神崎はちょっと驚いたようだ。初めて、彬人がエーコさんのことを何にも知らないことや、それ程親しい間柄なのではなかったということに気付いたのだろう。
「離婚したんだ。」
「え?」
「僕とエイコちゃんは、彼女が短大の2年の時結婚して、半年で別れた。」

集中治療室から出されて、エーコさんは一般病棟の個室に移された。今大部屋が開いていないらしい。お金はかかるがその方が落ち着けるし、よかったかもしれない。顔色も少し戻って来ていて、呼吸器なんかも外されて、彬人はとてもほっとした。
枕元に行くと、彼女は少し眠そうにしている。点滴が彼女の細い腕に通っていた。彬人の顔を見ると、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
彬人がどうしていいかとまどっていると、神崎が横からエーコさんに話しかけた。
「エイ、彼がわかる?」
「うん。アキヒト君、来てくれたのね。」
「救急車に付き添って来てくれたんだよ。」
エーコさんは彬人の方をじっと見る。しかし何も言わない。彬人も何も言わない。
神崎はエーコさんの点滴している手の指をきゅっと握ると、部屋を出ていった。
彬人は、しばらくまごまごしていたが、エーコさんの方を覗き込んでみる。彼女は彼と目があうたびに微笑んだ。
「大丈夫よ、心配しないで。私は死んだりしないわ。」
彬人がよっぽど切なそうな顔をしていたのだろうか。反対に励まされてしまった。
「ごめんなさいね。ほんとごめんなさい。迷惑も考えないで。駅で倒れそうになって、何故か、あなたが以前席を譲ってくれたことを思い出したの。それで、気付いたら電話してた。どうしてかしらね。おかしいわ。いつもだったら、神崎に電話してたのにね。」

多分、二人の間にはいろいろ事情も有ったのだろうし、そこには彬人にも踏み込むことができない。だが、エーコさんが彬人のことをどう思っているのかはっきりはわからないが、どこか絆のようなものの存在を感じて、心の支えにしているのかもしれなかった。うぬぼれるようだがそう感じられた。何故なら自分もまたそうだから。どうしても忘れられなかったから。相手の中に愛したい、そして愛されたい思いが感じられたから。そういう意味で二人は同類だったのかもしれない。
彼女は別れてしまった神崎にいつまでも頼っているわけにもいかず、病気になって、ひとりぼっちで戦って来たのだ。背伸びして、つっぱってみたりして、だけど本当は彬人と実質一つしか違わない、不安で寂しい女性だった。

「なんで別れちゃったのかしらねえ。あんなに夢中になって愛して、周りの反対も押しきって結婚したのに。愛してたのにねえ。」

彼女の声を聞いていて、どうしてか涙が出た。こんなに悲しい気持ちがこの世に存在するのを、彬人は初めて知った気がした。エーコさんの悲しみがまるで自分の悲しみのように胸に入って来て、溢れ出した。今二人の心は同じ一つの入れ物の中に混ざり合っているかのようだ。だからこそ、この人は決して彬人を選ばないということが、今はっきりとわかった。そして自分自身も、そうすることが可能なのだとしても、この人と一緒に生きる人生を選ばないということが、はっきりとわかった。

それからすぐエーコさんのお母さんが来たので、彬人は挨拶して病室を出ていった。神崎にも声を掛けて、バスで蓼川駅まで戻った。もうとっくに昼は過ぎて、駅に着く頃には2時半を回っていた。天気がよかった。ペデストリアンデッキは平日だと言うのに人がたくさん歩いていて、残暑の陽射しが建造物の濃い影を落としている。生ぬるい風が彬人の首を吹き過ぎていく。すれ違う人も、追い越していく人も、まるで影につきまとわれているかのようだ。それは生きている人間達ではないような気がして、ぞっとして立ち止まる。立ち止まると、世界は前後左右に動いていた。彬人の横をすり抜け、ぶつかりそうになって、時には側にじっと立ち止まって不思議そうに見上げる存在もあった。泣きわめく子供の声。女子高生達の甲高い笑い声。ビラ配りのバイト。署名を集める地域団体の必死の訴え。それまで気付かなかったひとつひとつがぼんやりと見えて来た気がした。
「鳩!」
母親に手を引かれた少女のはっきりした声が、すぐそばから耳に飛び込んで来た。
一羽の鳩が、翼をはばたかせて、力強く飛び立った。


つづく

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