ラウンドの女王編p32



腕時計を見ると12時45分。らんさんによると歌子姫は時間に正確な人らしいから、あと十五分は本当に来ないかもしれない。でもどこかにいっている暇も無いので斜向かいの靴下を見たり、雑誌の所に戻ったりしているうちに、三分前になった。まだ歌子姫は来ない。その時になってやっとえりこは緊張を覚えた。どんな顔をして会えばいいんだろう! 会ってまず何と言えば! そういやこのスカートちょっとシワっぽくないかな。今朝アイロンをかけてみたんだけど下手っぴなのであんまりきれいにならなかった。そうだ気が付かなかった、ハンカチに叔母さんがくれた香水付けて来ればよかったな! なんてことを考えていると時計の針が丁度1時をさした。その瞬間えりこの視界に歌子姫が飛び込んできた。
「えりこさん」
わ! 本当に時間に正確な人だった。
「来てくれたんですね」
「う、うん……」
 歌子姫は体にぴったりした白いワンピースに白い靴という清楚な姿で、ピンクのトートバッグを提げて立っていた。やや広めにあいたデコルテに美しい装飾の花のネックレスがてかってか存在感を放っている。
「あ、あれ、歌子さん、素敵なネックレス……ミハエル・ネグリンみたい」
えりこが思わずどうでもいいことを言うと、
「ネグリン? ああこれ、そうですよ? タグにもそう書いてあるから」
 えりこはぎょっとした。ミハエル・ネグリン。民舞の同期の女子の間で今評判のブランドだ。少し古い西洋絵画から抜け出たような、華やかだけどくすんだ、ノスタルジックな色彩が乙女心をくすぐると共に、ネグリンさんがイスラエルのデザイナーというところが大いに民舞心をくすぐった。イスラエルと言えばエレッツイスラエルヤッファ、ザッフェ、マナブーといったエキゾチックなマイナーの音楽と踊り、イエメナイトステップ(かつてイエメンからイスラエルへ来た人々のステップ)がすぐ頭に浮かぶ。一般的にはマイムマイムが有名だろうが、民舞界ではメジャーでなくえりこは一度も踊ったことが無い。しかし美しい音楽は知っている。ネグリンを見るとそういった一連の楽曲と踊りがえりこの頭の中を駆け巡った。それはいいとして、以前民舞行事の帰りにめぐとじゅんにくっついていって新宿のデパートでウィンドウショッピングをしている時にそのブランドを見つけ、皆で値段に目を丸くしたのだけれど、あれはとてもじゃないが貧乏な学生に手が出る代物ではないのだ。一番小さなネックレスでも3,4万はするので、今歌子姫がしているような豪華なのなら平気で5,6万するだろう、いやもっと高いのかもしれない。それをどうして歌子姫が首から提げていると言うのだ。えりこはこれまでの彼女とのことも忘れてつい興奮してしまった。
「どうしたの、それ。お父さんに買ってもらったの?」
「ううん。父の、会社の人」
「会社の人? もしかしてお父さん社長さんとか……」
お金の事やら何やら聞くのは品の無いことだとわかってはいたが、父の会社の人とはどういうことだ。ついえりこは聞いてしまう。
「ううん。別に社長じゃないわ。サラリーマンよ。父の部下の人が時々うちに遊びに来るんだけど、この間これ私にって持って来てくれたの。有名なブランドなの?」
「うん……私もそんなよく知らないけど……イスラエルの人……」
「イスラエル? ふうん」
歌子姫はわずかにイスラエルにだけ反応したが、それ以外は大して関心が無いみたいだ。どういうことだろう。何で父の部下の人が上司のお嬢さんにミハエル・ネグリンをくれるんだろう。5,6万といえばちょっとした手土産って金額ではない。相手がよっぽどお金持ちでもお父さんが遠慮して断るんじゃないか。だっていわゆる「そういう」意味合いだと取られかねない。いやもしかして父の部下が実は女の人で、自分のお下がりを妹のような年齢のお嬢さんにくれたとか? 人に貰ったけど自分のシュミじゃないの、とか。その方が納得がいく。
「あのう……その部下の人って女の人、かな?」
「え? 男の人よ。えりこさん変なところに拘るのね? 何かおかしい?」
いやいやいや! 拘るよ! おかしいよ! ひょっとしてその人、少女漫画で言うところの「許嫁」とか、そういう人なんじゃ……! って聞きたかったけれど、歌子姫が聞かれた事にしか答えてくれないから何度も質問しづらいし、あちらはえりこが何を気にしているかさっぱりわかっていないようなのでこれじゃこっちも事情がさっぱりわからない。男嫌いの歌子姫が何だって男から貰った高価な首飾りを、と考えたところでふとらんさんの言葉を思い出した。あの子十分男好きよ……って……。えりこは歌子姫が急に得体のしれない遠い存在になってしまったように感じた。
 しゃきしゃき歩く歌子姫について行くと、本屋から程近い所に喫茶店が有り、普段ドトールくらいしか入らないようなえりこがもたもたしているのも構わず、歌子姫はここでいいですか、とさっさと入っていった。
 入口が地下になっているせいか街中にしては人気の無い店だった。特にインテリアがお洒落だとか素敵な絵がかけてあるとかいうんでなく、特徴の無い茶色く塗った木のテーブルと硬い椅子、入り口の外に大きな陶器の傘立てがあって、大きな窓の外にコンクリートで固められた小さな庭があり、地上から光が入って来るので地下なのに案外明るかった。一つ印象的なのが、BGMに歌がかかっているところ。それもオペラかなにかみたいだ。
「えりこさん、お昼食べた? ごめんなさい私、いつも……いいえ、ここに来ちゃうから、何も考えず入っちゃって。レストランがよかった? ここナポリタンとサンドイッチおいしいわよ」
「うん、そういうのでいいや」
「今日は私おごるから、好きなだけ食べて。食後にパフェもね」
「いいよ! そんなことしてくれなくても……」
「いいの、お詫びに……今日はお小遣い持ってきたから」
 なんとこの子、大学生でもお小遣いもらってるのか。やっぱりお金持ちなのかもしれない。会計の話は後にして、とりあえずえりこと歌子姫はサンドイッチとコーヒーを頼んだ。緊張するな、こんなところとえりこがきょろきょろしていると、向かい合った歌子姫が突然さっと手を掴んできた。な、何だ?!
「えりこさん怒ってる?」
「……怒ってないよ」
「私えりこさんのこと本当に好きなの」
「ちょ、ちょっと……」
 えりこは慌てて周囲を見回す。他の客は深刻そうに何かしゃべってる女性二人組とカウンターで新聞を読んでいるサラリーマンが一人。オペラのBGMのせいで歌子姫の声は周りに響かなかったようだ。誰もこっちを見ていない。なるほどここなら賑やかな歌子姫でもつまみだされないかもしれない。しかも十四席ほどのテーブル全てに禁煙シールが貼ってある。珍しい。全席禁煙の喫茶店なのか。そりゃ人が来ないなとえりこは思った。だが本当、空気が綺麗な喫茶店ってすごく居心地がいいかもしれない。高校の校則では、えりこも多分歌子姫も喫茶店って保護者同伴無しの入店は禁止だったのだ。そんな大人の場所に同級生と二人でいるなんてそれだけでもどきどきする。まして歌子姫とこんなことして……。
 歌子姫の手は冷たくて細くて、やや骨ばっている。この子、必死で何を訴えようとしているのだろう。
「えりこさん、私に親切にしてくれて、皆私のこと嫌ってるのに平気で一緒にいてくれて、私本当に嬉しかった。私それに甘えてたんだと思う。えりこさんなら許してくれるって……」
 ふとえりこは意識が目の前の歌子姫から離れて行くのを感じた。忘れていたけどそういえばずっと前にもこういうことは有った。誰にでもあるようなとりたてて言う程のことじゃない。でも確かに以前にもそういう風に言われた事が有るのだ。
「いいよ。歌子さん、私本当に気にしてないし」
 そうだこの台詞も言ったことがある。えりこはこうやって物事にこだわらない寛容な人間のまま、穏やかな笑顔で相手を拒絶した。

 中学の時、隣の席になった男子となんとなくいい雰囲気になって、周囲も彼はえりこが好きらしいよって話してて、えりことしては別にそんな激しい恋心とかいう感情を抱いていた訳ではないが今思うと確かに少し、好きだった。そんな雰囲気に酔い、学校では何かと彼の事を意識し、冗談を言ったり小説を貸し借りしたりし、肝心な事は何も言わないままただその温室のような空間、実際には埃っぽい教室の中なんだが、むっとする湿度と酸味のある花の香りとを思わせるような、初めて知るぬるい、澱んだ空気を味わってそのことに満足していた。恋愛は始まる前の方が確かに楽しかったりもする。両思いとわかっている状況の下においては。ドラマのような甘酸っぱい青春なんかじゃない。えりこにはもっと、毒々しい匂いをほのかに予感するものだった。いや本当にそんな大袈裟なものではないのだが。
 だけどそんな或る日彼に告白した子がいた。下級生の女の子。入学してきた時から可愛いと男子に評判だった。えりことは違う、はつらつしたところのある明るい子だった。彼は最初何も変わりは無いように見えたけれど、いつの間にかだんだんとえりこから距離を置くようになった。
 クラスの女子俺のことおたくとか言って馬鹿にしてたのに、えりこはそんな目で見ないもんな。俺それに甘えてたんだと思う。えりこなら許してくれるって。頼りになる委員長って感じでさ。
 いいよもう。別に私達付き合ってたわけじゃないし、私にいちいち断る必要なんか無いよ? 私気にしてないし好きにしたらいいんじゃない? そう言うと彼は申し訳なさそうな目でえりこを見て、最後にごめんな、と言った。
 そんな目で見ないで! えりこは今でも叫び出しそうになる。本当にえりこは彼に恋してたわけじゃないのだ。彼が他の子と付き合うようになってもそんなに傷付かなかった。だけどあの時の彼の申し訳なさそうな目が、今でもえりこを傷付ける。えりこを敗者だと決定づけるあの目が。
 それから人に心を開くのが怖くなった。別に不親切な人間になった訳じゃないし友達とも普通に遊んだし、多分表面上えりこは何も変わっていない。何だかんだで結局何も事は起きていないのだ。何も無かった。だからえりこだって何も言う必要は無いし泣かなきゃいけないいわれもない。中には彼に腹を立ててくれた友達もいるけれど、えりこはその友人ともども、世界を切り捨ててしまったのかもしれない。らんさんにも歌子姫にもえりこは怒ってないと言ったけれど、そう言うこと自体が既に、えりこの怒りの代償の、諦めという拒絶、という意思表示なのかもしれない。つまりえりこは怒っていたのだ。

 えりこのそういう心境を、はっきりわからないまでも歌子姫は何か敏感に感じ取っているようで、いつまでも眉間にしわを寄せて、でも神妙に黙っていた。コーヒーとサンドイッチが来てとりあえず二人で食べた。パンがしっとりとして、マーガリンやマスタードの味のバランスが良くて確かに美味しかった。しかし美味しいねなんて和やかに話すような雰囲気では無くて、えりこはちょっとため息を吐く。いや自分がいけないのだ。歌子姫がまたえりこと仲良くやりたいと思ってくれているのにえりこは感情を上手く処理できなくて、らんさんならもっと、歌子姫を立てた上で自分も気持ち良くなれるような方法を探ってあれこれ会話をしていくんだろうに、この二人じゃ一向に埒が明かない。最初は普通に話せたのに、変なことを思い出してしまってからえりこは頑なに心を閉ざしてしまった。本当に面倒臭い自分!
「じゃあ、私今日バイトが有るし、そろそろ帰るね」
何も話してないし本当はかなり時間に余裕は有るのだけれど、えりこは財布を探しながら言った。
「えりこさん曲決めた?」
「え?」
「ラウンド大会の」
何だろう唐突に。そういえば忘れていた。
「ううん、まだ……」
「同じのにしない?」
「え?! 何で?」
歌子姫ときたら、小学生の女の子じゃあるまいし何を言い出すんだろう。
「私達、"忘れじの感傷"か、"Love Story"にしようかと思ってるんだけど」
「それどっちもうちの大学ではやってないんだ……それに歌子さん達と比べられちゃあ私自信無いよ」
「えりこさんと私なら順位なんてどうだっていいじゃない」
「え、私はまあ……」
あれ、歌子姫は優勝狙ってるんじゃなかったのか。彼女もハルキさんもトップレベルのダンサーだしこの二人が踊ったら皆度肝を抜かれるだろう。このペアと張り合ってもしょうがない気がする。
「らんさんは出ないの? 彼女と一緒にしたら?」
しまった、自ら地雷を踏んでしまった。
 歌子姫の顔からさっと血の気が引いた。ああ知らないよ、まずいまずい、歌子姫が怒り出すか泣き出すかするんじゃないかと思ってえりこは身構えた。だが歌子姫は……震える手でメニューを掴み、パラパラページをめくり出した。
「えりこさんパフェ食べない?」
「あ……もうお腹いっぱいで」
えりこはさっきから何度も頭の中でシミュレーションした通りの素早い動きで財布から千円札を取り出しテーブルに置いた。
「今日は顔見られて良かったよ。また、パーティとかで会おうね。じゃ、元気で」
歌子姫は青い顔で目を見開き、そそくさと立って行くえりこを見上げていた。震える唇が何か言おうとしていたが、えりこは急いで店を出た。
 それからえりこは自分が随分と酷いことをしてしまったかのような気持ちになって、そのことから目を逸らすように早足で駅に向かった。振られたのはえりこのはずだったのに、自分が振ったみたいな流れになってしまった。ああ今更だけど千円でえりこの飲み食いした分足りなかったんじゃないかと変な事が気にかかってしまって、頭に血がのぼる。ああ何て不器用な私たち!
 そういや歌子姫は一度も謝らなかった。別に謝らせるつもりもなかったが彼女が言ったのはえりこが好きということだけだ。怒ってる? と聞いたのに怒らせるような事してごめんとはいわなかった。あれじゃ、そんなつまらないことでまだ怒ってるのかと言われたようなものだ。ごめんと一言言ってくれたらえりこももう少し素直に歌子姫への友情を取り戻せていたかもしれない。いや、彼女のせいにするのは卑怯だ。彼女のことが好きなのに。ああ何て不器用な私たち!

 埃っぽい風が駅前ロータリーにぐるんぐるんと渦巻き、横断歩道を急ぐ人達に向かって押し寄せた。暑い午後が終わってしまう。せっかくの午後が。だけど帰って来てしまう以外他にどうしたらよかったのか、えりこには本当にわからなかったのだ。

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written by Nanori Hikitsu 2013
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