ラウンドの女王編p11

月夜だった。田んぼの中の舗装された道を、チヨコと二人歩きながら、えりこはずっと黙っていた。カエルの声が賑やかで、聞いたことがないわけではないがその改めて聞くと神秘的にすら感じる声の多層な響きを聞いていると、その音を共有していることでできる繋がりによって何も言わなくてもいいような、黙ってそれを聞いていたいような気がしてきてしまうからだ。いやたかだかカエル、そんなに大した声でもないのだがこういう庶民的な音を取りたてて美しいものと聞くのが風流というものなんだろうか。でも今やカエルも俗っぽいどこにでもいる存在ではない。都内ではカエルなんてそんなにいないだろう。そしたらこいつらも俗世間から隔絶された高尚な音を出しているということになるのか。まあそんな芸術性とかいうもの、えりこにはよくわからないが。
 1女に見つかると「守る会」とやらがうるさそうだし、えりこは1女が皆入浴している間にチヨコを連れ出して、華栄の合宿所に向かっているところだった。後で彼らに何て言えばいいかなとえりこはちょっとだけ悩んだ。まあ多分そんなに大袈裟な騒ぎにはならないと思うし、行っちゃだめと言われた訳ではないから自主的に出かけるのをやめる方が自意識過剰だよなあ……と思って。
「近いんだっけ」
先導役のチヨコに聞いてみると、練習着ではなくひらひらのロリータ姿の彼女はきょろきょろ辺りを見回しながら、
「確か十二、三分です」
と言う。この子の頭からつま先までちゃんと全身コーディネートに組み込まれていて、今日は殊更レースの多いワンピースに、よく知らないが西洋人形のようなヘッドドレスをして、太いヒールの靴がアスファルトの上でカコカコ言っている。星空の下、カエルの合唱を聞きながら田んぼの畦道を歩く原宿ロリータの少女といる自分。私の周りにはどうも不思議な人達が集まってくるなとえりこは思った。本人はすごく地味なのに。
 その時後ろから人の駆けて来る足音がして、思わず二人は立ち止った。えりこは都会とは言えない東京多摩地域の人間だが、それなりに物騒な事件も耳にすることが多い時代だし、普段から用心していないわけじゃない。夜道を若い女が二人だけで歩いているというのはいくら田舎でもまずいんじゃなかろうか。今更ながらちょっと焦って、この子を守らなきゃとえりこがチヨコの方を向くと、
「あ、じゅん先輩」
チヨコが後ろの道を注視して言った。
「え? じゅん先輩って」
大野女子にジュンは二人いる。三年の渉外部長、北野順子さんと、二年のえりこの同期、菊地じゅんだ。現れたのは菊地じゅんの方だった。
「あんた達ねえ」
手に懐中電灯とこうもり傘を持って、少々息を切らしている。
「女二人で危ないじゃないの。宿の玄関にいた男達が、あんた達が二人で出かけたって言うから、華栄の合宿所の場所聞いて、仲さんに地図見せてもらって、つい来ちゃったわよ」
「え、そうだったの? ごめん」
「男共も気が利かないわよね! 二人だけで夜道を行かせちゃうなんて。私が追いかけるって言っても、全然大丈夫ですよーまだ8時前だしなんて本当のんきで逆にびっくりしてるんだもの」
「そりゃまあ、東京育ちと地方出身者じゃ感覚違うんじゃない? 都内じゃ深夜に女性が一人で歩いてても普通だもんね。でもこの先にコンビニも有るっていうし、暗いのはここだけかなって」
「この先も暗いわよ。それにあのコンビニは今時18時で閉まっちゃう個人商店よ」
「それよりじゅん、あなた、何て格好してるの」
さっきから気になっていたが、菊地じゅんは安土桃山時代の農民の女のような格好をしていた。よく見ると大型スーパーで夏に5000円くらいで吊るして売られている量産品の浴衣の中の、ひとつ選ぶならもっと華やかなのにするだろうけれど、これも古風で意外に悪くないなと思うような、水色のぼかしに撫子の柄のを着ていて、普通の半幅帯ではなく紐を腰に結んでいる。更にその上に短いカフェエプロンをして、長いストレートの黒髪を結わずに垂らした上から近所の商店の名前の入った手拭を姉さんかぶりにしているのがなんだか大河ドラマの庶民の小袖姿を思わせるのだ。だが足はソックスにスニーカーだった。
「お風呂上り、庭のベンチで涼んでたのよ」
「お風呂上りいつも浴衣だっけ?」
「素敵ですね」
チヨコは喜んでいるようだった。
「ありがと。今年に入ってからよ。売れ残りの七割引きセールやっててさ。旅館でよく浴衣着るけど、あれ家に有ったらいいなと思って。帯とか下駄とか持ってないから出かけられないんだけどね」
「何でエプロンしてるの?」
「万一前はだけた時ヤバいじゃない」
うむ。この子は2女の中では一番女を感じさせる肉体とみごとな黒髪を持っていて、のどの感じとか袖から出た腕とか太くはないんだけど健康的にほどよく肉が付いて、洗い髪のしっとりした湯上り姿は非常に色っぽい。がしかし、2女で一番がさつで、宿からここまで走って来る間に浴衣の前あわせがはだけてしまいそうになっている。エプロンをして正解だ。万一前はだけた時とか言っている場合じゃなく既にヤバい。
「やっぱりちゃんとした帯した方がいいんじゃない? どうなってんのこれ」
「あ、大丈夫大丈夫、下にTシャツとスパッツ着てるから」
「……なんだか返って暑そうですねエ」
えりことチヨコが手伝って、見苦しくない程度にじゅんの着付けを直してやった。
「で、えりことチヨコが何だって二人して華栄に行くの? 面白い組み合わせね」
「私は道案内です。昨日行ったから」
三人連れだって夜道を歩き出した。ロリータと練習着と安土桃山時代。これまた妙な取り合わせになった。
「ふうん。えりこは歌子姫に会いに行くんでしょ。守る会の目をかすめて来たわけね」
「もう、じゅんったら」
えりこが膨れると、じゅんはゲラゲラ笑った。
「えりこに立ち入らないようにしましょう、とはいかないのね」
守る会、なんて名称自体じゅんからしたら揶揄としか思えないに違いない。というのも、これは大野女子大ですっかり定着した冗談なのだ。
 最初は大学の「芝生を守る会」という学生有志団体の名称から始まっている。校舎前の芝生の育成を見守る為、学生が立ち入らないよう呼びかけをするだけの活動をしている構成員の全くわからない組織が有って、誰もその顔を見たことはないのだが、各校舎の複数の掲示板にいつも「芝生に立ち入らないようにしましょう。芝生を守る会」というビラが貼ってある。ビラは自然と劣化していくので定期的に新しく貼り替えられるのだが一体いつ誰が貼り替えているのかもわからない。学生は他の掲示物と一緒に見るともなしに見てはいて、ビラの存在感だけは有った。
 だがそんな或る日、もう大分古びて日に焼けたビラの文字を改めてじっと見つめている先生がおられた。皆がもう何か月も見て、見慣れているはずのビラ、そういえばそろそろ貼り替えるのかな、と或る学生が近寄って、その教授の傍で覗き込むと、立っておられたのは英文学科の芝先生だった。多くの著書が有り、必修で多くの学生が授業を取るので他学科でも知っている、この学校では権威の有る有名な教授である。御歳六十、退職間近の、いつも穏やかで物静かな、雑談一つしない真面目な芝先生が、いつになく寂しそうな、戸惑ったような表情をして佇んでいた。学生はビラの方を見、目を疑った。一体誰にも気づかれぬまま何カ月その状態になっていたというのか、「芝生を守る会」と書いてある「芝」と「生」の間に、「先」という文字がすっぽりと収まっているではないか。文字数が少なく文字間隔が空いていたから可能だったのだろう。まるで初めからそうなっていたかのように自然に、だけどビラ主とは別人物とわかるとても美しい筆跡で。
 学生が慌てて各校舎の掲示板を駆け回って確認した所、全てのビラが「芝先生を守る会」に書き換えられていた。芝先生を貶す内容ならともかく「守る会」なのだから誰も嫌な気分にはならなかったかもしれないが、あの物ごとに動じないいつもゆったり微笑まれている芝先生を動揺させたいたずら、しかも誰が貼っているかわからないビラに対する誰がやったかわからない、そして何の生産性も意味も無い遊びは、次の日には大野女子で大評判となり、半年経った今でも語り草だ。
 まあそんなことが有ったものだから、大野女子で「守る会」と言えば芝先生を守る会の間の抜けた事件を思い出して人は苦笑するのだ。菊地じゅんの言った通り、えりこさんを守る会ならえりこさんに立ち入らないで頂きたいものだが。
「二人とも、皆に余計なこと言わないよね? 私はただ、お友達と踊りに行くんだからね?」
「わかってるわよ。私らを何だと思ってんの」
「ヒドイなえりこさん。えりこさんてちょっと友情ってもんを軽んじてるとこありますよね。傘まで持って追いかけてくれる友達は守る会より稀少なんですよ」
見るとそう言うチヨコの手にもレースの付いた華奢な日傘が握られている。
「ひ、日傘? なんでチヨコちゃんそんなもん持って」
「えりこ、いくらトータルコーディネートって言っても夜に日傘って使わないもんよ」
菊地じゅんはため息をついてえりこの肩に手を置いた。えりこはさすがに自分の鈍さに気付いて立ち止った。つまり、何か有った時えりこや自分の身を守る武器としてさりげなく傘を持ってきて、それをえりこに悟らせなかったのだ彼らは。
「イノシシが出るかもしれませんしネ」
チヨコは思い切り可愛い声で言って、カコカコ靴を鳴らしながら先へ進んだ。

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written by Nanori Hikitsu 2012
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