ラウンドの女王編p3

第2章:四つのトランシルバニアの男性舞踊


それは夏休みに入る直前のことだった。
大学生のえりこ達はもちろん前期末試験の真っ最中。筆記試験にレポートに、皆憂鬱な顔で暑い日々を過ごしている。この大野女子大フォークダンス部部室に集まる人数も、普段よりかなり少なかった。
「あれ、葵さん。」
えりこが置きっぱなしにしていた「青年心理学」の教科書を取りに部室へ行くと、大野女子三年生で部長である黄(こう)葵さんが一人、シックな黒いボレロ付きワンピースに身を包み、椅子に添うように寄りかかって、右手にシャープペンを持ち、左手はピンクの扇子を指先でゆったりと操っていた。
「あら。えりこちゃん。こんにちは。」
にっこりと笑うその笑顔はあでやかで、冷房もない部室で汗もかかずによくもまあこんな白檀の香りを漂わせている若い女性がいたものだ。
「こんにちは。暑くないんですか? 長袖……」
えりこは、他の皆と同じように、半袖のカットソーに膝丈スカートを合わせて……髪は一つに束ねている。首筋は汗びっしょりだ。
「ふふ……冷えるのはよくないもの。えりこちゃんはこれから図書館?」
「いえ……もう帰ろうかと思って。葵さんはレポートですか?」
冷えるのはよくないと言って真夏日に長袖を着るとは! 熱中症になるって! と内心驚愕するえりこである。
黄葵さんはまるで飽きてしまったようにシャーペンを投げ出すと、レポート用紙を繰って、枚数を数えだした。
「二の四の六……うーん。九枚行ったわ。もういいかしらね」
「いいかしらねって……」
「えりこちゃん方向同じだったわよね。一緒に帰らない? お昼どう? にゅうめんならおごるわよ」
「え? ええ……はあ……どうも」
黄葵さんは部室の整理棚からホッチキスを取り出すと、左上を無造作に留め……それから表紙を付け忘れたことに気付き、レポート用紙に講義名、学生番号、氏名、レポートタイトルを走り書きし、綴じてしまった本文の上に乗せてその上からまたホチキス留めしてしまった。
それから教科書を椅子の背後の本棚に適当につっこみ、立ち上がる。
「ちょっとね、夕べ弘樹から電話があって、もう、試験の最中というのに、遅くまで二時間くらい話しちゃったわ。福徳はそろそろ試験終わる時期だからいいわよね。」
寝不足なのかやや気怠げな様子を見せる黄葵さんに、えりこはちょっとどぎまぎする。
「弘樹」は、別に黄葵さんの彼氏ではない。単に、単なる、大野女子大のパートナー校福徳大の部長であるにすぎない。だがこんな風に気安くひろき、なんて黄さんが言うと、なんだかちょっと曰くありげである。が、それはいつものことで、やっぱり単に福徳の部長の事であるに過ぎない。
「サークルの仕事があるんですか? 大変ですね」
えりこは目当ての『青年心理学』を見つけ出すと、カバンに入れて、立ち上がった。

外に出ると、ちょっと風を感じたが、すぐにまた猛暑は健在であることを思い出す。えりこはあわててカバンから帽子を出し、被った。
見ると、黄葵さんは折りたたみの黒いレース付き日傘を開いていた。
「ちょっとどこかの未亡人みたいでしょ?」
黄葵さんは形の良い艶やかな唇の端を上げて笑う。くらっと目眩がしそうだった。
「現代日本には黒装束黒日傘の未亡人なんていませんよ」
ついえりこが冷たくそう言ってしまうと、黄さんは残念そうにあ、そうと言うと、白いUVカット手袋を取り出した。まだ着るのか!と、見ている方がどっと汗をかいてしまう。

「そうそう、それでね。弘樹の電話なんだけど」
途中文学部児童文学科のレポートボックスに立ち寄って、例のレポートを投函してから、黄葵さんは思い出したようにしゃべりだした。
「あー、はい」
正直言ってえりこは、この黄先輩と話すのに戸惑いがある。いやもちろん、黄先輩のことは大好きだ。でも、ペースが非常に合わせにくいお方なのである。踊りのペースもコールのペースも、しゃべるペースもどういうわけかワンテンポずれる気がする。向こうにもえりこと親しく話す気があるとも思っていなかったのだが、今日はどういうわけかお昼にまで誘われてしまった。
それが「にゅうめん」というのも微妙なところであるが。
「誰かに相談したかったのよ。こーんな時期に話を持ってこられても、もうしばらく部活も無いし、同期は部室に来ないから誰にも会えないし」
なるほど。それでたまたまばったり出会ったえりこに相談を持ちかけてきたのか。でも、上級生の相談に乗れるような者ではないんですが……とえりこもちょっと困ってしまう。
「いいのいいの。話を聞いてくれるだけで。ちょっとだけ付き合ってよ」
えりこの気持ちを悟ったのか、黄葵さんは笑って手を振る。

というわけで、隣の駅の駅ビルにあるうどんやさんのにゅうめんがおいしいんだとかで、結局えりこは電車を降ろされ、うどんやへ連れ込まれてしまった。

……異様な光景である。見晴らしの良いガラス張りの展望うどんや。若き未亡人と二人きりで、汗をかきかきにゅうめんをすする女子大生……。
本当は冷やしたぬきうどんを食べたかったのだが、黄部長が「にゅうめんならおごる」と言って聞かないので、仕方なく、いや、ありがたくにゅうめんをごちそうになることにしたのだった。確かに、かなりおいしかった。真夏日でさえなければ。
「うふふふふふ。ここのにゅうめん、おいしいでしょ?」
ご満悦の黄葵さんを前に、水を差すようなことを言ってはいけないと自らを戒めるえりこだった。

熱いお茶(!)をおかわりしながら、葵さんはえりこが食べ終わるのを待っていてくれた。冷房のきかないうどんやはお昼過ぎだというのに人も少なく、ぼろいメニューに蝿が止まっているのを見ながら、そろそろ潰れるな、とえりこは冷静に、心の中で思った。声に出して言ってはいけない。
「ここは人が少ないから話しやすい場所だと思って。実はね……」
えりこが食べ終わるのを見計らって、突然黄葵さんは真剣な目をした。
うぐっ……。いきなり本題に入ったので、えりこは呑み込んだばかりのそうめんをのどに詰まらせるところだった。
「はい、お茶」
「……いえその……お水ください」
脱力するえりこ。
黄葵さんが頼んでくれ、持ってきて貰った水を飲んで、えりこはやっと人心地着く。
「わかりました、極秘のお話しなんですね。それでこの人気の少ないお店へ。大丈夫、絶対人に話しません」
「ううん。にゅうめんが食べたかったの。で、全然秘密の話じゃないの」
……あ、はあ。と、えりこはまた肩すかしをくってしまう。
まったく、我がサークルは良い部長さんを持ったものである。

「それがね。全日本学生ラウンドダンス選手権にね」
「はあ?」
「全日本学生ラウンドダンス選手権」
「あ、はい。はい?」
突然とんでもない言葉が飛び出して来たので、聞き間違いか、何か同音異義語かなと、しばらくえりこは意味を把握することができずに唖然としてしまったのであった。
「ぜんにっぽんせんしゅけん??」
「そう。フォークダンスの中の、ラウンドダンスの、日本選手権大会。学生版」
やっと伝わったとばかり、黄葵さんはにっこりと笑った。
「えりこちゃん、出てよ」
「ああ、ラウンドの……って、えええええ!? なんですって?」
「だからね、えりこちゃんに、全日本学生ラウンドダンス選手権に出て欲しいなって」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 何ですか、それ! そんなもんあるわけないでしょう?」
えりこは大慌てで、立ち上がった。
「まあまあ、今から詳しいこと話すから。座って座って」
えりこの動揺ぶりを全く意に介さず、黄部長はにこにこして、穏やかに彼女を座らせる手振りをする。
そもそも、フォークダンスというのは、競技でないからフォークダンスなのだ。皆で踊るものなのに、競い合ってどうする! というのが一般的な学生フォークダンサーの感想だと思う。えりこだけでなく、黄葵さんだってそう思っていたに違いない。それがね、と黄さんはちょっと眉を下げて笑った。
「全日から話がもちかけられたんだけど……」
ここで補足しておくと、この世界で「全日」と言ったら「全日本学生フォークダンス連盟」のことである。プロレスではない。
ご存じだろうか。日本には本当にそういう組織があり、全国の加盟サークルが集まって毎年合宿講習会を開いているのである。それに参加すれば、九州だろうと北海道だろうと、日本全国の大学フォークダンスサークルの人々と知り合いになれるのである。それが縁で交友が広まり、卒業後も何かと集まっては踊って飲んで……ということもしているらしい。
だが、中にはその全日に加盟していない学生サークルがある。理由はいろいろだが。
特に関東のかなりの数のサークルが全日に加盟せず、独自に活動を続けていて、それら非加盟校は一般に「フリー校」と呼ばれ、フリー校同士での交流のみを重視しているのである。
えりこ達大野女子と、提携校の福徳大も、フリー校だった。
さて。
「とある全日加盟校が、ここらでフォークダンスを盛り上げよう、っていうんで、面白い企画を考えたそうなのよ。初めは東京ドームを借り切って踊りながら野球するフォークダンス野球大会とか、代々木公園で一日中、フリーマーケットを囲んで、二十四時間耐久よさこいソーラン&耐久フリマ、とか、東伏見のスケート場で、スケート靴を履いてブルガリアだろうとメキシコだろうと踊るフォークダンス・オン・アイス、はたまたウォーターボーイズやスイングガールズみたいな、コパニッツァボーイズって映画を撮るとか、そういったことをいろいろ言ってたんだって」
淡々とした黄葵さんの声に、えりこは頭がくらくらしてくる。
まったく、暇な学生ってとんでもないことを言い出すものだ。
「で、ラウンド選手権に意見がまとまっちゃったんですか……」
「っていうか、それが一番まともな企画だったの」
まとも。黄葵さんは言葉の意味を取り違えてやしまいか……。
えりこはため息をつく。
「別に付き合わなくても。ただでさえうちも忙しいんだし」
「ううん。もちろん、これはそんな公式行事じゃないし、お遊びよ、お遊び」
お遊びの大好きそうな黄葵さんは、にゅうめんをほおばった時のようににっこりと、嬉しそうに笑う。
「そ、そんな。じゃあ、葵さん出てくださいよ」
「ん〜。でもねえ。大会は十二月なのよ。私たち三年生、十一月で引退でしょ?」
薄いオレンジ色のマニキュアをした指で、割り箸の袋を折りながら、残念そうに言う葵さん。
そうなのである。寂しいことだが、大野女子では伝統的に、三年生の引退が十一月なのだ。余所のサークルに比べてかなり早く、また、引退したら現役の活動には一切関わらないのが大野的なのである。
「い、引退したら出てはいけない規定があるんですか?」
「もちろん、そんなの無いわよ。そもそもお遊びだし。余所はOBOGも出すって噂よ。でもね、そのことでゆうべ弘樹と話し合ってたの」
ひろきひろきと、特別扱いというより何となく、取り巻きその一、その二を呼び捨てするかのような口調になってきたので、えりこはやや影の薄い弘樹部長をちょっと気の毒に思ってしまった。
「どうして彼等がフリー校を誘ってこんな企画をするかっていうと、普段離ればなれのフォークダンサー達が皆で集まって仲良くできる場を作りたいって思ってくれたんだと思うのね。特にフリー校だと、ほとんどの子が全日の存在すら知らないじゃない」
そうなのである。えりこも全日なんて最近知ったくらいで、東京だけでなく北海道や九州にまで仲間がいることを知らなかったのだ。
「そういう趣旨なんだったら、せっかくだから、これからの子たちが参加する方がいいじゃない?」
「……ええ。お話しはわかりました。でも」
だからと言ってほいほいそんなものに関わってしまうほどえりこはお祭り好きな方ではない。他大の仲のいい同期、桃子ちゃんだったら大喜びかもしれないが。
「でも、嫌?」
「嫌というか、それでどうして私に出ろなんて」
「そりゃあ、困っていた時に部室に現れたからよ」
がっくり。もしかして上級生の間で誰が出るのが適切か話し合った結果えりこに白羽の矢が立ったのだろうかと思ったのに。なんのことはない。たまたまそこにいたえりこにてきとーに振ってしまっただけなのだ。ため息を吐いて、えりこは立ち上がる。
「もう、とにかく私はお断りしますよ。だいたい指導部は何て言ってるんですか。こんなふざけた企画、企画倒れが関の山ですよ。それじゃ」
えりこは財布を出すべく、カバンをあさり始めた。
「あらあ。それは困るわ。だって、わたしたちももう後四ヶ月ちょっとしかサークルにいられないのよ。後輩達のことが心配で。だってあなたたち、自分のサークルにばかり閉じこもっちゃって、外の世界を知らなすぎるじゃないのよ。ずーっとそれを心配してたのよ。どうしてかわかる?」
へえ。驚いた。黄葵さんが今日初めて真面目な顔して話しだしたので、思わずえりこは動作を止めていた。
「どうしてそれが心配なんですか?」
「あなたもねえ。ラウンドの女王とか言われてるくらいだし、ラウンドうまいわよ? でもね、世界は広いのよ」
そう言われると、どきりとして何も言いかえせず、えりこは黄さんを見下ろした。いや別に、ラウンドの女王に反応したわけじゃない。世界は広い。その通りだ。
「内にこもったサークルは、サークルとして発展しても、フォークダンスを衰退させるわ」
黄さんはおちゃらけているのかと思ったら、穏やかな顔をしつつもとても真面目な口調であった。黄さんは、伝票を手にとって立ち上がった。
黄葵さんがお勘定する背中を見ながら、えりこはしんみりした気持ちになった。一年生の時から見慣れていた黄さんのウェーブがかったボブカット。もうあとたった四ヶ月でお別れなのだ。
早く終われと思っていた試験期間の真っ最中だというのに、えりこの心は揺らいだ。時間よ過ぎるな! 今この瞬間に止まれ! 思わず願ってしまう。葵さん、悲しい事思い出させないで下さい。黄葵さんが高い声で言う。
「ごちそうさま! やっぱりここのにゅうめんは絶品よ。また来るわね!」
まいど、とそれほど愛想の良くない店の主人がつぶやいた。



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written by Nanori Hikitsu 2005
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